企業や芸能界では今、コンプライアンス違反やハラスメントに対して非常に厳しい目が向けられている。あからさまな「昭和的価値観」を押し出そうものなら、世間や株主から猛烈に叩かれる時代だ。
たとえば、フジテレビや、松本人志氏、中居正広氏などの行動がバッシングの的になったことがあったが、裏を返せば、それだけ社会に強力な「浄化作用」が働いている証拠でもある。
一方で、まったく自浄作用が働かない場所がある。「家族」や「親族」というコミュニティだ。
家族は、企業や芸能界と違って非常に閉鎖的な空間である。当然ながら家庭内にコンプラ相談窓口など存在しないため、モラハラ気質な人や価値観が古い親族がいても、誰からもペナルティを受けず、問題が永久に是正されない。
たとえば「男は仕事、女は家庭」「結婚して一人前」といった発言は、いま表舞台で口にすれば一発退場レベルだが、家の中ではスルーされてしまう。世間の価値観がどんどんアップデートされていくのに対し、閉ざされた家族の間には昭和的価値観が手つかずのまま残り続ける。結果として、社会と家庭の価値観のズレは広がる一方だ。
もしかすると、家族・親族というコミュニティは「昭和の価値観やハラスメントが生き残る、最後の場所」になってしまうのかもしれない。
では、もし身近な親族がそうした古い価値観のままだった場合、私たちはどう向き合っていけばいいのだろうか。相手の考えを無理に正そうとしても、ただ感情的な対立を生んで泥沼化する未来しか見えない。
今は実家から離れて暮らすなど、物理的な距離をとることで直接的な衝突を避けることができている人も多いはずだ。しかし、将来的に親族が高齢化したり病気になったりしてサポートが必要になれば、そうやって距離を置くという選択肢も取りづらくなっていく。
逃げ道がなくなったとき、アップデートされない価値観とどう折り合いをつけていけばいいのか。これは、なかなか答えの出ない悩ましい問題だ。
「政治の話はタブーじゃない」という理想と、私の自己矛盾
私はわりと、「SNSで政治の話をするのはアリ派」だ。むしろ、もっと普通に語られていいと思っている。
私たちの日常生活と政治は地続きであり、どこかで切り離された特別なものではないからだ。だからこそ、タブー視せずに誰もがフラットに意見を交わせる空間こそが、私の理想とするSNSのあり方だったはずだ。
しかし、タイムラインを眺めていると、どうしても引っかかってしまう瞬間がある。
私の主義主張と異なる意見があること自体は構わない。だが、その批判のやり方がひどく口汚かったり、誰かを嘲笑するような言葉だったりすると、げんなりしてしまうことがある。
そしてふと、身勝手にも、「この人が政治の話さえしなければ、苦手にならずに済んだのに」と思ってしまう自分がいる。
ここには私自身の大いなる矛盾がある。「みんなもっと政治を語ろう」という信念と、「語ってくれたおかげでその人が苦手になってしまった」という現実。アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような、なんとも言えない居心地の悪さがそこにある。
この自己矛盾に対する明確な答えは、まだ持っていない。今日もまた、断腸の思いでミュートワードを追加してしまい、自分の度量の狭さに溜息をついている。
「 AI に悩みを相談する」には思わぬ落とし穴があるのでは、という話
今の時代、AIの賢さは目を見張るものがある。誰にも言えない悩みを AI に打ち明けることだって、もはや珍しい話じゃない。実際、自分もその利便性によくあやかっている。
しかし、今日友人と話していて「AIに相談するって、実はかなり危うい側面があるんじゃないか」という話題になった。AIが優秀すぎるがゆえに、私達はその落とし穴を見落としている気がしてならない。
* * *
例えば、気分の塞いだ夜に「自分は何のために生きているんだろう?」という疑問が浮かんだとする。
これを生身の友人に相談したらどうなるか。「お前、またそんなこと考えてんのか。疲れてるだけだよ、とりあえず飲みに行こうぜ」とか「考えるだけ無駄だ、寝ろ」と返されるのがオチだろう。
でも、この「あしらい」こそが、実は救済だったりする。自分を「悩みの外」へと連れ出してくれるからだ。
一方で、AIはあまりにも誠実すぎる。「あなたが生きる価値については、哲学的な観点から見ると……」と、こちらの問いを真正面から受け止め、どこまでも真面目に、論理的に付き合ってくれる。だが、これがまずい。
AIはこちらが設定した「問いの前提」を疑わない。「そんなことを考えること自体が今の君には毒だ」とは指摘してくれないのだ。問いが間違っていても、その枠組みの中で最適解を出そうとする。
結果として、悩み相談をしているつもりが、AIの回答によって自分の内面へ深く潜り込むことになり、かえって思考の閉塞感を強めてしまうのだ。
「生きる意味」というのは極端な例かもしれない。だが、こうした「今考えても仕方のないこと」を考えすぎてしまい、思考の袋小路にハマってしまうことは、誰にでもよくある話だ。
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もちろん、AIに相談すること自体が悪いわけじゃない。ただ、悩みというのは、必ずしも「考え抜くこと」で解決するものばかりじゃない。
ときには問題から強制的に距離を取ったり、考えなかったり、時間が解決してくれるのを待つほうが、よほど効く場合もある。しかし、AI はそこまで教えてくれない。
これは自戒だが、考えが堂々巡りし始めたときほど、「答え」を探すのを一度やめるように心がけたい。AIは便利だが、AIに相談することを万能な手段だと過信しすぎないほうが、沼にハマらなくて良いのかもしれない。
長く続く友人関係は、少し頑張って、少し手を抜く
友人関係を長く続けていくためには、「維持するための努力」と「頑張りすぎないこと」のバランスが肝要であるように思う。
まず、「維持する努力」について。
「エントロピー増大の法則」という言葉がある。物事は放っておくと、自然と秩序を失い、形が崩れていくという法則だ。
これは人間関係にも当てはまると私は考えている。何もしなければ、関係性は自然と薄れ、疎遠になっていく。だからこそ、関係性の定期的なメンテナンスが必要になる。
メンテナンスと言っても、大げさなことではない。例えば、下記のようなことだ。
・新年に「あけましておめでとう」と送る
・誕生日にメッセージを送る
・旅行に行けばちょっとした土産を買う
そういった些細なアクションが、「あなたを大切に思っている」というサインになり、ほころびかけた関係を繋ぎ止める杭となる。水をやらなければ草木が枯れるように、人間関係もまた、意識的に手をかけなければ枯れてしまう。
一方で、それと正反対の「頑張りすぎない・尽くしすぎない」という意識も、同じくらい重要だ。
相手のために何かをしすぎると、気づかないうちに疲れてしまったり、「これだけやったのだから、同じくらい返ってきてほしい」という期待が生まれてしまうことがある。そうなると、関係そのものが重たくなってしまう。
だから私は、親切にしたい気持ちがあっても、あえて少しブレーキをかけるようにしている。全部引き受けない、無理なときは断る、できる範囲でやる。それくらいの距離感のほうが、結果的に関係が長く続くことが多い。
適度なメンテナンスで関係の風化を防ぎつつ、疲れないようにあえて手も抜く。この「適度な頑張り」と「適度な手抜き」のバランスこそが、友人関係を長く続けるために必要なことだと思っている。
補足
「人間関係には適度なメンテナンスが必要」という話は、Ossan.fm 第 354 回「男性と孤独」を聴いてから強く意識するようになりました。面白いエピソードなので、興味のある方は聴いてみてください。
新年おめでとうございます。昨年も読んでいただき感謝です
あけましておめでとうございます。
昨年は弊ブログをご覧いただき、ありがとうございました。去年から、1記事あたりの文章量が少し増えました。にも関わらず、お時間を割いて読んでくださったことに深く感謝しております。
また、このブログをベースにした書籍の出版 にあたり、本を読んでくださった方々にも重ねて御礼申し上げます。
表現とは、受け手がいて初めて成立するものです。読んでくださる皆様のおかげで、私の表現活動は支えられています。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
現代の学習に必要なのは「情報を集める力」より「遮断する力」ではないか
何かを新たに学び、習得しようとする際、現代において必要なのは「情報を得る力」ではなく、むしろ、意識的に情報を「遮断する力」の方ではないか。
私たちはSNSを通じて、あまりにも簡単に「達人」や「天才」を目撃できてしまう。語学、プログラミング、創作。どの分野にも、自分より遥かに優れた先駆者がごまんといる。それはまるで、跳び箱の三段で足踏みしている自分の横で、軽々と十段を跳んでいく人間を見せつけられるようなものだ。「自分の上位互換など無限にいる」という事実に直面し、学ぶ意欲そのものが萎縮してしまう。
また、他人の華麗な成果に焦り、「あの人の持つあのスキルが必要なのでは⋯」と目移りした結果、結局何一つ身につかないという悲劇が起こる。
加えて、情報の過多は迷いと停滞を生む。ダイエットや美容の分野では、正反対の理論を唱える専門家が数多く存在するし、YouTubeには「これを知らないとヤバい!」と不安を煽る動画も溢れている。何を信じるべきか迷っているうちに、手と足が止まってしまうのだ。
さらに厄介なのは、ネットの海が「やらない理由」の宝庫である点だ。教科書に載っている地道な基礎練習(メソッドA)が辛くなったとき、検索すれば必ず「Aという練習法は無意味だ」と主張する誰かが見つかる。自分の怠惰を正当化してくれる都合の良い意見だけを拾い集め、私たちは安心して努力を放棄してしまう。
だからこそ、私は情報の濁流とは少し距離を置く。本当に必要なのは、遠くの天才や無数のメソッドではない。自分が跳び箱の三段を飛べないなら、やるべきは、目の前にある不格好な三段を跳ぶ練習をすることだけだ。
確かな実力を身につけるためには、あえて耳を塞ぎ、視界を狭める勇気を持つべきではないか。雑音を遮断し、自分だけの世界に没頭することこそが、上達への最短ルートなのだと私は思う。
追記
イラストレーターのさいとうなおき氏が、このようなことを「“井の中の蛙”力」と呼んでいた。良いネーミングだと思う。
