持病を抱えながら社会人をやり始めて、4 月で 6 年目になったようだ。
そういう生き方をする中でしみじみと感じるのは、病気に理解のある家族ないしは友人の有無によって、病気と寄り添いながら生きる人生の難易度は随分と変わってくるということだ。
社会人は健康であること、100% のパフォーマンスを出せることを前提に接せられる。健康上の問題を解決することはマイナスをゼロに近づけることであり、その努力をいくら頑張っても社会から褒められることは決してない。加えて、仕事は自分が調子を悪くしている間も基本的に待ってくれるものではないから、早く健康に戻らねばと非常に焦らされる。だから、健康の問題と対峙していくということはとても孤独で、モチベーションの維持も難しいことだと感じる。
では仕事の世界を離れれば理解者はいるか… というと、見つけるのはなかなか難しい。自分が抱えている病気が普通の人には馴染みの薄いものであればあるほど、病気と闘うつらさは理解されにくいものだ。
そういう孤独な闘いを強いられる生き方であるからこそ、病気に関して理解のある人が周りにいるときの安心感というか、救われる感というのは本当に大きいものだなと思う。
身体の問題に抗いつつ社会人をやるそれぞれの人の近くに理解者がいてくれることを心から願うとともに、自分もまた病気に抵抗する人の理解者でありたい。
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